『SRサイタマノラッパー』は自主映画である。
 監督・入江悠氏は映画配給システム上、自主であり続けることを意識的に選んでいる。
 それが国際映画祭で複数の賞を獲り、海外配給さえ始まっているのだ。

 これは竹熊健太郎さんが自身のブログで書いている出版界の変化(というか正常化)とつなげて考えなければならない事態だ。

 旧来のシステムにのっかって物を考えている人はどんどん脱落する。
 むろん、だからといって新しいシステムを選ぶ人間がむやみに儲かるわけではない。
 自由を得られるというだけである。
 自由と、正しい規模の金とを。
 ただし、この自由は金銭によって買うことが難しい。
 であれば、どちらを選ぶかはバリューの問題からいって明らかだろう。

 
 先日、とあるオシャレ雑誌が連載を依頼してきたので、俺は「自分のブログをまとめさせてくれないか(むろん雑誌バージョンとして編集するので)」と提案したのである。
 雑誌は常に何かを利用し、吸収してきたメディアであり、現在のネット時代に雑誌のすべきことを考えるなら、平気の平左でネット上の情報を、しかし雑誌らしく編集すべきだからだ。つまり、雑誌がエラそうに純粋でいようとするのは雑誌の歴史上間違えているし、編集とは何かということを見せるためには引用の妙、その構成をまずは誇るべきだと思ったからである。それには一度プライドを捨ててもらわねばならない。その上で、プロの仕事の質を読者に見せつけるのだ。
 しかし、編集長レベルまでいって、俺の提案は蹴られたそうだ。
 やはり救いようのないところまで来ているな、と思った。
 twitterとブログの時代をどう生き抜くか、雑誌界の認識はどこまでリアルか。
 このままではほぼ、雑誌は「広告のために束ねた紙」で終わりかねない。
 それは雑誌でなく、広束誌とでも呼ばれていればよいのではないか。

 では、我々が作り直すべき雑誌とは何か?
 答えのひとつが『PLANTS+』だと俺は改めて思った。
 
 その意味でも、『SR』の快進撃と竹熊発言は重要なのである。