アウン・サン・スー・チーさんが無実のまま起訴されている。
EUはミャンマー軍事政権への規制を打ち出しているが、アジアは反応が手ぬるい。
なぜなら各国、ミャンマーとのつながりで権益があるから。
金で黙るというのがしゃくだ。
それで、罪のない人が捕らわれの身になっていることを見過ごせというのか。
恥を知れ。
80年代、南アフリカでネルソン・マンデラが自由を奪われていた。
欧米で多くの歌手、クラブDJ、デザイナーが「フリー・マンデラ」を訴え、ばんばんビニール盤を出し続けた。
俺はその運動を素晴らしいと思ったが、残念ながら効果はないだろうと考えていた。
だが、数年後、マンデラは解放されるに至った。
南アフリカは民主化されたのだ。
歌うこと、ミックスすること、描くことに効果はあったのだった。
そして、「フリー・アウン・サン・スー・チー」は特に、アジアのミュージシャンによって訴えられるべきだ。
むろん俺を含め。
明日もミャンマー大使館前で抗議行動が行われるだろう。
俺もただ今、連絡待ち。
FREE Aung San Suu Kyi!
さて、新型インフルエンザで、近畿大学も一週間閉鎖。
俺に二日間、ぽっかりと時間があいた。
ということで、本日は渋谷でエミール・クストリッツァの『ウェディングベルを鳴らせ!』を観た。
クストリッツァ作品の中でのランキングは正直低いと言わざるを得ないけれど、それでもフィクション魂は健在。
ロシアのプーチン政権が強権をふるう中で、セルビアへの愛を語り、権力を批判するのは大変なことだと思う。
そして俺は数日前にDVDをもらって観た韓国映画『チェイサー』(ナ・ホンジン監督)のことを考えた。
実際に近年逮捕された連続殺人鬼事件をモデルに描かれた本作は、「救いのなさ」を徹底的にテーマ化しており、目を覆わんばかりの殺人描写と並んで、誰も救われない悲惨さを描くのであるが、俺はその残酷なタッチに露悪的な、「現実の救いのなさ」をあまりに強調するがゆえの、むしろ通俗性を強く感じたのである。
現実に救いなどない。
だが、それを前面に押し出すことは虚構の仕事だろうか、と俺はしきりに思った。
ほんわかした救いの物語が欲しいというのでは決してない。
“自分を突き放すものこそ、ふるさとだ”と坂口安吾が言う場合の突き放され方、救いのなさと、『チェイサー』の救いのなさでは品が違うと思ったのである。
癒しなどいらない。
だが、自分が絶えず突き放されるような場所で、自らいつまでも立っていようと思わせる何かが『チェイサー』には欠けている。
その何かこそ虚構の精髄であり、さらに詰めていけば言語そのものの働きではないか。
『ウェディングベルを鳴らせ!』の中にこんなシーンがある(ネタばれ注意……というほどでもないけど)。
たった一人しか生徒のいない学校の薪ストーブの火を、官僚がバケツの水で消してしまうのである。
その暴力が、俺には殺人シーンと同じ残酷さに感じられた。
つまり、クストリッツアは人を殺す虚構なしに、殺すに等しい虚構を作り得たわけだ。
俺はそれこそが言語だ、その存在意義だ、と考える。
連載小説『すっぽん』を途中から書き直そうかと日々考えている俺は、こうして虚構、言語それ自体について思いをめぐらせやすくなっており、そのことで書くことから逃げている可能性さえ実はある。
が、俺は岩にかじりついてでも明日は書く。
死んでも書く。
締め切りがないことは、俺を倫理に限りなく近い場所へと導く。